1
勝浦市と大多喜町の境に、「四つ石(よついし)」という地名がある。この地名が「四つ石」と呼ばれるようになったのは、こんな話からだ。
2
今から800年ほど前のことだ。伊豆の「石橋山の戦い」で敗れた源頼朝(みなもとのよりとも)一行は、房総に逃がれてきた。
ちょうど今の勝浦市佐野(さの)の集落に入ったときだ。
パカッ パカッ パカッ・・
パカッ パカッ パカッ
馬の走る音が聞こえてきた。数十頭の馬だ。
「追っ手だ。平家の武者(むしゃ)にちがいない。川に降りろ」
頼朝がさけぶと、夷隅川に馬を進めた。川を渡ろうとしたのだが、増水しており、とても馬で渡ることができない。
頼朝がちゅうちょしている間にも、追っ手は近づいてくる。
「まてー、源氏の一党(いつとう)ではござらぬか」
「源氏の頭領(とうりよう)、頼朝殿とお見うけもうす」
「逃げるとはひきょうなり」
「正々堂々、勝負いたせ。われらは平家の者なり・・・」
平家武者のさけび声がだんだん近づいてきた。
多勢に無勢、ここで戦えば頼朝軍の負けは明らか。頼朝は
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、われらを助けたまえ」
とさけび、馬をおどらせ夷隅川にとびこんだ。
すると不思議なことに、四つの大きな石が川底からせりあがって来るではないか。頼朝は四つの大きな石を足場(あしば)として向こう岸に渡った。
頼朝一行が渡り終わると、四つの石はまた川深く沈んでいった。追っ手は向こう岸に渡った一行を、ただ見送るばかりであった。
おかげで、頼朝一行は命びろいすることができた。
3
この近くには「槍折坂(やりおりさか)」という地名もある、これは頼朝がこのとき持っていた槍を折ってしまったことから、「槍折坂」という地名がついたといい伝えられている。
ほかにも、頼朝が身を隠したという洞穴(ほらあな)も残っている。
その後、頼朝は布施に館を構えていた上総介広常(かずさのすけひろつね)や下総(しもふさ)の国の千葉常胤(ちばつねたね)の助けにより、平家を滅(ほろ)ぼすことができた。
そして鎌倉に幕府を開き、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった。
おしまい
(斉藤弥四郎 著より)