「豊臣(とよとみ)をたおす。みなのもの大阪に集合せい」
元和元年(1615年)、徳川家康(とくがわいえやす)は諸国の大名に号令をかけた。大多喜城主、本多忠朝(ほんだただとも)のもとにも出陣命令(しゅつじんめいれい)がとどいた。
1
大多喜を出発する日がきた。忠朝の勝利を予期しているかのように空は晴れた。
「これから豊臣(とよとみ)軍を倒すため、大阪へたつ。この忠朝に続け」
大多喜城の金の鯱(しゃち)が初夏の陽に照り輝き、勝利を祈るかのように忠朝軍を見送った。当時、大多喜からは睦沢(むつざわ)を経由して江戸にむかうのが慣(なら)わしだった。
大多喜と睦沢との境にさしかかった時だ。道端(みちばた)の藪(やぶ)がガサガサなった。忠朝が見ると、イタチがチョロチョロと馬の前を横切った。「むむ不吉な」、忠朝はつぶやいた。
「・・・一同、引き返す」
と大声で叫んだかと思うと、手綱(たづな)を引いて馬の向きをかえた。隊も忠朝の後につづいて引き返した。そして、長南(ちょうなん)との境の小土呂坂(おどろざか)の藪を切り開き、江戸、大阪へと向かった。
馬(駒)を引き返したのでこの地を『駒返し坂(こまがえしざか)』と呼ぶようになった。
2
大阪に着いた忠朝は徳川軍の先陣を切って勇猛果敢に戦い、七十四人もの敵をたおした。その時血に染まった戦場を一匹のイタチが走りぬけた。忠朝の脳裏(のうり)に夷隅川の流れ、涼風にふかれる緑の田んぼ、そこで働く大多喜の人たちの姿がよぎった。
その瞬間だ。敵兵の
「覚悟」
という声が聞こえたかと思うと、忠朝は脇腹を槍でつかれ、馬上からドッとくずれ落ち息たえた。忠朝、三十四歳であった。
戦いは終わった。家来たちが忠朝の亡骸(なきがら)を抱いて、家康の前に座(ざ)した。家康は涙を流し
「忠朝、よくぞ勇敢に戦った。父忠勝に劣らぬ武将であるぞ。おまえの死を無駄にせず、平和な国をつくるぞ」
と労をねぎらい、平和な国づくりを約束した。大多喜城主、本多忠朝は討ち死にしたが、「大阪夏の陣(おおさかなつのじん)」は徳川方が勝利し、以後、徳川の時代は長く続いた。
忠朝の亡骸は両親と共に、大多喜町新丁(しんまち)の良玄寺(りょうげんじ)の墓地に眠っている。
おしまい
(斉藤弥四郎 著より)