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むかし、むかし、今から約四〇〇年ほどむかしのことです。 御宿町の岩和田(いわわだ)でスペイン船が大嵐のため岩礁(がんしよう)にのりあげ、おおぜいの船乗りたちが浜にうちあげられました。 それを知った住民たちは船乗りたちを救助しました。 からだが冷えきって死にそうな者たちには、女たちが体であたためて助けました。 この知らせを聞いた大多喜城では、会議を開きました。
「異国(いこく)の野蛮人(やばんじん)、すぐに切ってしまうべきだ」
「いや、異国人といえども同じ人間、殺してはなるまい」
意見は対立しました。
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そこで、城主本多忠朝(ほんだただとも)は岩和田の浜に家来を視察にやりました。 総督(そうとく)のドン・ロドリゴや船乗りたちは礼儀正しく、視察の人たちは感動しました。それを聞いた忠朝は
「食糧を十分にあたえ、不便をさせてはならぬ」
と近くの寺にあずけ、ニワトリや牛の肉をあたえてもてなしました。
そして、船乗りたちの疲れもとれたころ、大多喜城に招きました。
「殿様、このような立派なお城におまねきくださり、ありがとうございます」
「フィリピンから三隻の船でノビスパン(メキシコ)のアカプルコに向かっていたのですが、ひどい嵐にあってこんなことになってしまいました」
「気の毒に、この大多喜の地で疲れをいやしてくだされ」
「お殿様はじめみなさまのやさしさ、ありがとうございます」
ロドリコは涙をながして感謝しました。
忠朝は江戸の徳川幕府に、ロドリコ一行をどうしたらよいか、うかがいをた
てました。 すると江戸城の将軍秀忠(ひでただ)と家康の住む駿府城(すんぷじょう)に上洛(じょうらく)するように命令がくだりました。
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その後、一向は幕府から船をあたえられノビスパン(メキシコ)に帰郷しました。 ロドリコは帰国してから日本のようすを『日本見聞録(にほんけんぶんろく)』にまとめ、「城はけわしい天然の地を利用して容易に攻めることができない。 御殿(ごてん)には金や銀をたくさん使ってありみごとである」と大多喜城のことを書きました。
今から約四〇〇年前、大多喜城の殿様本多忠朝のやさしい心がおおぜいの外国人の命を救ったのです。 お城のふもとに『メキシコ通り』とよぶ美しい歩道がつくられ、大多喜とメキシコの関係を今に伝えています。
おしまい
(齊藤 弥四郎 著)