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地名の話

地名の話

北条時頼と御宿

御宿町の昔ばなし

1
上総(かずさ)の国(くに)は菜の花(な はな)におおわれていた。道ばたも、あぜ道も畑も、黄色に輝いていた。そんな菜の花畑の間を一人の僧がゆっくり歩いていた。
田園地帯が過ぎ、潮の香が春風にのって流れてくる。
「海に出るか」
大きく深呼吸して潮の香をすいこんだ。
坂道を登りきると、とつぜん海があらわれた。紺碧の海が目の前にひろがった。僧は笠の縁を右手でもちあげて海原をみた。あまりのまぶしさに目をほそめた。水平線に目をやるとキラキラ輝いている。左に目を移すと断崖絶壁。岸壁に波がぶつかる。白い飛沫がおどる。キラキラ輝く。
「上総の海はもう春か」
僧はつぶやき、しばらくながめた。やわらかい風が、汗ばんだからだを心地よく吹きつける。吹きあげてくる潮風に僧の袈裟がゆれている。
僧はまた歩きはじめた。魚の匂いがただよってきた。道は右手に折れ左手に大海原をみながら歩く。右手は屋根の低い民家が肩を寄せ合うように軒をつらねている。深くしわがきざまれた老人が網をつくろっている。子どもたちがかくれんぼをしている。僧をみると、みんな頭をさげた。僧も立ち止まって深々と頭をさげながら通り過ぎた。
民家を過ぎると、また菜の花畑が道の両わきにあらわれた。道にそって黄色に輝く菜の花。春の陽ざしに色を濃くする大海原、暖かな潮風・・・のどかな上総地方である。
「気持ちよきこと」
生きる喜びを感じながら歩を進めていた。
・・・一里ほども歩いたろうか。立ち止まった。額には汗がにじんでいた。今度は笠のひもをといて
「ほんとうに美しい春じゃのう」
とつぶやいた。ふところから手ぬぐいを取り出し、汗をぬぐいながら腰をおろした。そうして、また春の海に見とれた。
・・・しばらくすると、立ち上がって、笠をかぶり、ひもを結び、また歩き出した。僧の名は最明寺入道北条時頼である。このたび将軍の位を退き、執権という位についたばかりである。執権とは幼い将軍を影から援助する役である。職を退いた、というので年輩かと思えばまだ二十九歳である。現役を退き、出家して諸国の様子を見聞しているのである。今は戦のない平和な世の中であるが、いつ戦が始まるかわからない。ひとたび戦が始まれば、各地のご家人に頼らなければならない。そんなわけで、諸国のご家人の様子をごらんになっている最中なのだ。
しかし、きょうは景色の美しさに心をうばわれていた。

2
海が岩場から砂浜に変わった。三日月のように弧をえがく浜辺、浜辺をかこむ松林・・・。絵にかいたような構図だ。
山の端に陽がかたむき、真っ赤な、真っ赤な夕焼けが広がった。海面も、小麦色の砂丘も、松林も、一日の漁の終わった舟も、みんな真っ赤にそまった。規則正しく寄せては返す波の音。静かな、静かな網代の浜。
「平和じゃのう」
と、つぶやいた。
「穏やかな暮らしじゃ」
美しい夕暮れに、今夜の宿のこともわすれていた。
ゴーン ゴーン ゴーン
暮れ六つの鐘が風にのって聞こえてきた。
「近くに寺があるようじゃ・・・。今夜はそこに世話になるとしようか」
名残惜しそうに、腰をあげ、鐘のなる方に向かった。
歩くと、寺の山門があった。山門をくぐると、山を背にした本堂と、庫裏がみえた。切り立った山には松林が広がっている。長年、海風に絶え、くねくね曲がった枝が寺を守るようにのびている。その枝を夕日がそめている。
「お頼み申す」
庫裏の玄関でさけんだ。
「どなたでございましょうか」
「ぶしつけな頼みですが、一晩泊めていただけないだろうか」
「それはそれは、おこまりでございましょう。どうぞ、どうぞお入りください」
庫裏に通された。
「どちらから、おいでなさいました・・・」
「鎌倉からです」
「それは、それは、遠いところから」
「上総は、はじめてですか」
「はい、はじめてです。本当に美しいところじゃのう。愚僧はこの海の景色が気に入りました」
「そうですか。私らは見なれているせいか、あまり感じませんが、そんなに感動してくださいましたか。どんな所に心を動かされたのでしょうね」
「そうですね・・・」
「菜の花畑もよかった、紺碧の海の色も、砕ける波も・・・夕焼けも・・・心を動かされました。中でも、この先の浜辺・・・あの浜はなんと言うのですか。ほんとうに美しかった」
「はあ、あの浜は網代の浜と申します」
「網代の浜ですか。名前もいいですねえ」
「ああ、それに、この寺の松。夕日に照らされる松の枝ぶり・・・。戦のことも忘れさせてくれ心がなごみます」
「そんなにお褒めいただきありがとうございます」
時頼は、先ほどまで目にしてきた美しい景色に酔っていた。
そうして、ふところから矢立と紙を出した。筆の先を少し口にふくんで墨を付け、一気に書いた。紙には次のように書かれた。
御宿せし
そのときよりとこと問はば
網代の海と夕影の松
この歌から「御宿」という地名が命名された。
また、最明寺入道北条時頼がこの寺に宿泊されたので寺の名は「最明寺」と命名されたそうだ。

おしまい
(齊藤 弥四郎 著)

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