あまりの激しさに我を忘れ思わず我が家の柱にかじりついた。それはとっさの間であった。間もなく子供をつれて自宅東側の空き地へ避難したが相次ぐ余震に近隣の自己所有の空き地へ移動し、その夜はこの空き地で仮睡した。翌日も余震やまず、ことに海嘯(かいしよう)来襲の噂もあったので西沢倉の高地に移動し、さらに沢倉五〇五番の高地、自己所有の畑に避難した。
当時この地ではこの大地震は伊豆大島の三原山の大噴火によるであろうと推測されていたが九月二日午後、勝浦海岸へ行ってみると折から天は晴れたが勝浦の西海岸砂子の浦のはるか後方、遠い中空に黒煙がたなびき折からの北風にこの黒煙は北から南へと流れつつあった。
このおびただしい黒煙は東京全市の火災による黒煙であろうと判断されたが、この頃になるとしばしば燃えた紙片が灰となって勝浦へも降下してきたので東京の大火災はもはや疑うべくもなかった。・・・勝浦では東京方面との関連が深いのでたいていの家では東京市内の親戚の安否を気づかい毎度食糧を携えて上京するもの引きもきらず、私の乗った列車など超満員の上、人々の携帯する食糧の重みで列車がこわれるのではないかと気づかわれたほどであった。東京の焼け野原の状態は思いのほか悲惨を極めていたので、これでは再び復興はできないのではないかとさえ感じた。これは私として詐らざる感想である。
ところが驚くべし、たとえバラック建てにせよ、たちまちにして復興したが、これは日本国民の雑草の如きたくましさを示すものと後に知った次第である。なお正史によればこの時の東京市民の死者九万、行方不明三万という。
(略)この地震の時、私の叔母松井とよは伊豆国伊東町久須美(伊東市)に居住していたが、海嘯(かいしゆう)襲来の噂で高地にある著名の寺院仏現寺へ難をのがれたが間髪を入れず大海嘯で家財家屋共すべて流失、大きな損害をうけた。
勝浦方面では幸いに海嘯の襲来がなかった。災害は忘れた頃にくるという。沿岸の地勝浦市民の心すべきことであろう。
・海嘯(かいしょう)・・・満潮が河川をる際に、前面が垂直の壁となって、激しく波立ちながら進行する現象。
『続私説勝浦史近代編』引田作蔵著 昭和四十七年
(齊藤 弥四郎 編纂)