大多喜町 西畑歳時記2月

如月

春祈祷(ひやり)

正式の名称は春祈祷と言うそうで、これから始まる農耕作業の安全と豊作を祈るところからきているもので、当地方では「ひやり」と称していた。この語源は誰も知っている者はいなかった。「ひやり」の当番の家は毎年時計回りで、各家を順番に回っていく。この「ひやり」は毎年節分の翌日の晩から一晩二日で終るが、雪が積もっていたり、雨や寒さで農作業ができない時は一日延ばし、二晩三日の年もあった。古老の話によると、或ある年の大雪の年などは一週間もやったことがあるという。

「ひやり」の目的は二つあり、一つは先に書いたもので、もう一つは作男や作女に出されていた若い人達が、年期が終り、出代りと言って家に帰って来るので、その慰労の意味もあったのである。当日になると褞袍(どてら)を着て白米二升と有り合わせの野菜等を持ち寄って昼食が終わると当番の家へ集まる。ふつうは家庭の主人であるが、結婚した男子がいる時や作男に出ていた男子がいる時はその人達も同じように出席した。調理は若い人達の手料理で、先達になる若者を中心に献立を話し合って、持ち寄った材料の他、調味料や肉・魚等は買い出しに行った。鶏もよく食べたがほとんど廃鶏に近いものをつぶした。

当時一般家庭では肉や刺身は滅多に食べることは無かったので「ひやり」は久々の御馳走が食べられるので、とても楽しみであった。一食当たりの米は一人前四合を炊いた。食事の後片付けを終え、次の食事作りの合間や夕食が終ってからは大分時間があるので、囲碁、五目並べ、将棋、花札等いろいろの遊びに興じた。また、腹減らしにと称して腕相撲や脛押し、指相撲等今考えると誠に他愛もないものであるが。そして、腹がすいてくると夕飯の残りの混ぜご飯をお握りにして食べたものであった。同じ地区に住みながらも、普段一緒になる機会がないだけにとても賑やかで、また、酒盛りの時は自慢の喉を競い合った。勿論、当時はカラオケもテレビも無かったので、皆の手拍子に合わせて歌った。よく歌ったのは、「草津節」「花笠音頭」「伊勢音頭」「東京音頭」「大漁節」「炭坑節」等でこれに合わせて無骨な手踊りも飛び出した。普段無口な人も酒が入ると、人が変わったように冗舌になったり、剽軽なことを言ったりして皆を笑わせた。

こうした主人達の「ひやり」が終ると引き続いて主婦達の「ひやり」が始まる。大筋は主人達と同じであるが、主婦達には小学校入学前の子ども達がついて来るので一段と騒ぎは大きくなる。これらが終ると今度は老人たちが、男女別に分かれて行う。こうして二月は「ひやり」に明け暮れする感じがあった。当時は現在と違って雪が多かったと思う。したがって作業の野良仕事はあまりする日が無かったが、その代わり室内作業が多く行われた。 春耕に備えて「蓑(みの)つくり」「筵織り(むしろおり)」「縄綯い(なわない)」「畚作り(もっこつくり)」「たて織り」「足中」「草履」「草鞋(わらじ)作り」等皆稲わらを使ったもので藁は非常に大切なものであった。主婦達は作業衣の仕立てや繕いが仕事であった。また、一年間の燃料とする薪とりもよく行われた。

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