一月五日 六日に刈った茅はそのまま山肌に干したままにしてあったが、二月に入ると茅の乾き具合を見て、施主(屋根替えの家)は各家庭を廻り「お忙しい所、すんませんが、○月○日に茅下ろしをお頼み申します」と申し述べ、これに対し「おめでとうござんす。天気にしたいネ」と挨拶するのが慣例であった。さて、頼まれた家々では男女各一人が必ず出役することになっており、なにかの都合で、家の者が出られない時は代わりの者を出して決して欠役することは許されなかった。
茅下ろしの当日は、荷運びの出来る馬か牛を飼っている家では、これも連れ出したが、その為には、朝の三時頃までに牛馬に飼葉を与え、荷鞍の準備をした。当日女性の仕事は、乾かしてある茅を山肌から、背負い子(しょいこ)で、牛馬に荷付けをするいわゆる「荷付け場」まで、背負って運んだ。その頃はまだ薄暗いこともあった。帰りには宿の家まで背負って来たが、今と違い道も狭く且つ曲折や急坂も多く、大変骨の折れる労働であった。男達で牛馬を持たない者は、直接山から宿の家まで背負った。
こうして運ばれた茅は、宿の親戚や近所の御爺さんたちの応援で庭先等に積まれ、屋根替えの始まるまで雨水の入らないよう管理した。燃えやすい枯れ茅を多量に積んであるので、火が一番恐ろしかった。
屋根替えを始める前にはいろいろの準備が必要で、まず、屋根地に使う真竹を竹の性の良い十一月頃に必要量を伐って用意した
母屋の屋根替えは大体三十年に一度の大事業であった。新しく葺き替えた屋根でも十五年も経つと日当たりの悪い北面から痛み始め、毎年のように部分修理をするようになり、また、風の為に捲くられることもあり、三十年も経つとどうしても全部の葦替えに迫られた。
費用も多額にかかるので、それを相互扶助の目的で「やど無尽」が作られていた。その内容は現金、縄、大麦とそれぞれ額や量、規格は定められていて当日は宿世話人が立ち会いの上厳重な検査が行われた。大麦は当日の牛馬の飼料にする為であった。
いよいよ、屋根全部の葦替えとなると地区中あげての大仕事である。古い屋根を全部剥がさなければならない。それにはままず、前日までに作業用の足場を作る。足場にはたくさんの材料が必要となる。そのため、隣、近所から稲の収穫時に使った竹竿や杉丸太を借り集め、近所や親戚の者達の力を借りて屋根の周囲全部に作業に必要な足場を作らなければならない。大きな家になると延べ三十間(五十四メートル)にもなる。
朝三時、まだ、夜も明けない中を、各家から男女二人が集まり世話人の指示により、屋根を壊しにかかる。屈強の男達は鎌と「すげ」(藁を簡単に縄(なわ)にしたもの)を持って上がり棟から茅を捲り、半抱え位の大きさに束ねては下へ転がし落とす。下では、女たちが、担いだり、背負ったりして焼却場所に運んで火をつける。枯れている古茅に火をつけるので、火勢は非常なものである。何より恐いのは風が出ることであった。茅もだんだん屋根地が出るころになると、三十有余年もの煤がたまっているので、目も口も開けていられない程の煤煙である。上も下も身体中真っ黒になり、光っているのは目だけである。この作業も夜明け頃にはやっと終わる。そこで、一休みしてから屋根地の竹を取り外す。こうして「あぼし宿」は終了する。
「あぼし」が終ると、用意しておいた竹と縄を使って、屋根地を作る。葦替えは専門職の「屋根屋」に頼む。「屋根屋」といっても、普段は農業をしている者達が農閑期を利用して、数人が組を作って求めに応じて、たいてい、延べ六十人くらいで仕上げることが多く、完了すると「棟上げ」と言って棟近くに簡単な座席を作り、棟に五色の吹き流しを立て、家主や職人が祝杯を挙げ、作業が無事終わった事を神様に報告する。
これが終ると供えてあった紅白の餅を、ばら撒くように屋根の四隅から投げる。これを拾おうと近所のお手伝いの方々や、老人、子供達が大勢構えており、争って拾う。それはそれは賑やかに和やかに棟上げ行事は終わる。
それから改めて、地区一同や、親戚の人達が、新しい屋根の下で大宴会を始め、歌や踊りで賑やかす。この宴会が終る頃、職人の組頭に、祝儀と籠餅が主人から贈られる。籠餅というのは、直径一尺三寸(約四十センチ)位の目笊に、紅白の餅を詰め杉の葉で掩い縄で亀甲型に作った物である。
だがこれで屋根替えが完了したものではなく棟瓦を乗せ、平場を刈り軒廻りを整える。何といっても屋根替えは一生に一度の大事業であった。
いろいろの行事で忙しかった二月も漸く終わると農家はそろそろ春耕の支度にかかる。畦焼きや水路の掃除の共同作業が始まる。
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