数え年七歳になると、男女を問わず、日蓮宗の大本山である小湊の誕生寺のお会式にお詣りすることになっていた。当時は交通機関は、何もなかったので、片道二十キロ近い道を、皆歩いて往復したものである。子どもの足ではとても無理な道程であるので、大体の家で父親が半分位の道を背負って行き、また、帰りは途中まで出迎えに来た。そして、行きは途中の公餞堂、今の勝浦市台宿の茶店で昼食をとった。お数は、大抵大根、里芋に秋刀魚一尾の煮込みであった。腹の空いてきた時刻なので、それはそれは美味しかったものである。一皿が十銭位であったと思う。そこを出てしばらく行くと海の見える岩光山に出る。初めて見る海とは、一体どんなものだろうか、「海の水は生きていて、寄せたり返したり一日中動いていて、しかも塩辛い」とかねがね聞かされていたが、見たこともない海とは、一体どんなものかと胸に期待を膨らましていた。さて、いよいよ道は上総と安房の国境である峠に差し掛かった。
ふと見ると、木の間がくれに遠く海が見えた。青く輝いている。何とも言えない感激であった。現在では、幼児のうちから、外国旅行するのを見ると、全く隔世の感がある。やがて、坂道を下りきって、小湊海岸に出た。海は果てしなく広く、白波は少しの休みなく寄せては返し、返しては寄せ、本当に生きているように見えた。人波に押されながら、寺町通りを進み誕生寺にたどり着いた。寺の境内は七つ児やその付添人で大変な賑わいである。仁王門では、仁王様の大きさに目を見張り、祖師堂に至りうやうやしく両手を合わせお賽銭を投げ仏様を拝む。参拝を済ませると大部分の人達は布教伝堂に宿る。百畳敷と言われる二階の大広間は、いっぱいの人で夜は雑魚寝であるが、祖師堂では一晩中大太鼓を打ち、読経や坊さん達のお説教が行われた。明けて十三日はお詣りのお土産を買う。まず、千歳飴、仏様のお守り札等で、特に農村ならではの、お土産に皹膏があった。
当時の農家の人で皹の無い人は稀であった。地下足袋や軍手を使う人は滅多にいなかった。帰りはまた徒歩であったが、七つ児も付添人もすっかり疲れ切っていた。帰路の途中まで来ると、父親達が負紐をを持って迎えに出ていて皆背負われて、背中で眠ってしまった。
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