夷隅川の支流の又支流の不通川に、川止めをして造った農業用水の為の溜池があった。
最初に造られたのは、徳川の中期頃と言われる。その頃のものは極めて小さく、従って灌漑面積も少なく、その後改良を加え三十余町歩を潤すまでになったが、充分とはいえなかった。ところが、大正十二年の大旱魃(かんばつ)では全く役に立たず、これではいけないと言うので、堤防の嵩上げ工事が行われた。
だが、川堰だけに毎年上流から流れてくる、土砂や朽木などが堰の底に溜まり、貯水量が減少するので、五年に一度くらい、この泥を攫った。その方法は、まず、九月下旬頃もう水田に水の必要のなくなった頃に、堰の一番底に設けてある水門を開け放しにしておき、降雨の度に少しずつ自然に泥が流れるようにしておいたが、やはり完全には流れないので、十月頃大雨が降り始めると、農家全員が蓑笠を付け鍬や万能を持参で堰に集まり、半ば軟岩化した泥を掻き出し、流水に乗せて流すのである。これは相当な危険が伴うので、下手をすると増水した流れに、攫われそうになることもあった。この泥は下流三キロにも及んだ。
この泥流しは、例え一反歩の耕作者も一町歩の耕作者も、受益面積の大小に拘らず同じ労務であった。穏やかさは表面で、内実は不満もあったらしいが、地主に対しては小面積の耕作者は文句も言えない、封建的なものであったらしい。また、一面共同体のよさでもあった。
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