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慶長十五年(一六一〇)九月三日の夜、スペイン船が大嵐のため岩和田(御宿町)の浜にうちあげられた。材木や板にしがみついた船乗り達がおおぜいうちあげられた。それを知った住民たちは船乗り達を救助した。からだが冷えきって死にそうになった者は、女達が体温であたためて約三百人を助けた。
この知らせを聞いた大多喜城では、急いで会議をひらいた。
「わが国に外国人を入れるのはご法度、すぐにきってしまうべきだ」
「いや、外国人といえども同じ人間、殺してはなるまい」
意見は対立した。
2
城主本多忠朝は岩和田の浜に家来を視察にやった。船長のドン・ロドリゴと船乗り達は礼儀正しく、視察の人たちは感動した。
「食糧を十分にあたえ、決して不便をさせてはならぬ」
と近くの寺にあずけ、衣類や食糧をおしみなくあたえてもてなした。
そして船乗り達の疲れもとれたころ、忠朝はロドリコ一行を大多喜城に招いた。
「よくおいでくだされた」
忠朝とロドリコは互いに握手をし、手にキスをして友愛の情を示した。
「殿様、このような立派なお城におまねきくださり、ありがとうございます」
「それにしてもひどい目にあったものだ。気の毒にのう」
「フィリピンから三隻の船でノビスバン(メキシコ)のアカプルコに向かっていたのですが、ひどい嵐にあってこんなことになってしまいました」
「気の毒に、この大多喜の地でつかれをいやしてくだされ」
「お殿様はじめみなさまのやさしさ、ありがとうございます」
ロドリコは涙をながして感謝した。忠朝は江戸の徳川幕府から上洛の命令がくだる三十七日間手厚くもてなした。晩餐会では牛やニワトリ、酒でもてなし、美しい着物や刀をプレゼントした。
3
ロドリコは帰国してから日本のようすを『日本見聞録』にまとめ、「大多喜城はけわしい天然の地を利用して容易に攻めることができない。御殿には金や銀をたくさん使ってありみごとである」と大多喜城のことを書いている。
今から約400年前、大多喜城の殿様本多忠朝のやさしい心が大勢の外国人の命を救った。後にこのことを記念し、お城の下に『メキシコ道路』よぶ美しい歩道がつくられ、大多喜とメキシコの関係を今に伝えている。
おしまい
(齊藤 弥四郎 著)